味の浜藤の先祖は瀬戸内海
この藤右衛門に男子2人が生まれ、長男藤米(とうべい)が新たに鮮魚商を始め屋号を濱藤(はまとう)とし、次男大吉が濱屋を継承したと伝わっています。 藤米は5男2女をもうけ、家業は代々長男が継いで発展させてきました。
藤米の末娘ハルが味の浜藤初代となった森口二三に嫁いだことが当社の社名のきっかけになりました。
-
森口二三は福岡県豊前市の農家に明治23年9月23日に生まれ、生まれた年と日の23にあやかって二三と名付けられました。
海運会社に勤務していたときに兄から浜藤のハルとの見合いをすすめられ、結婚したのが浜藤との縁になりました。 当時から二三には商売の才覚があったようです。
結婚をすると度々は勤めを変えられないということで、福岡県飯塚市で豆乳を製造販売する店を始めました。
しかし、うまくいかずに京和銀行に勤務することになりました。
やがては支店長にまでのぼりつめましたが、大正12年、関東大震災のあった年に銀行が破産したことが二三の運命を大きく変えることになったのです。
その後、大正14年に上京して東京市京橋区築地(現、東京都中央区築地)にて、サラシ鯨を百貨店などに納める商いを自らおこしたのです。このときに妻の実家の浜藤の名をとって、傍系4代目の 浜藤商店の看板を掲げました。豆乳を販売して失敗した経験を生かし、集金の心配のない百貨店で扱ってもらう決心をしたのです。
見本品をもって最初に出向いたのが百貨店の三越でした。担当者の「売ってみましょう」の言葉に足が震えるほど感激したそうです。
東京では珍しいサラシ鯨に着目したのが功を奏しました。やがて海産物に手を広げていき、昭和4年に京橋区明石町(現、中央区明石町)の地に本社兼住宅を建てるまでになりました。
しかし、当時から珍味を主体に商っていたということには変わりはありません。 -
昭和10年頃の明石町の浜藤商店
この当時の主要取引先は三越(日本橋、新宿)松屋(本店)ニ幸(新宿)東横(渋谷) であった。
左奥に見えるのは昭和6年に建設された聖路加病院 -
当時より、西京漬を初めとする漬魚、おでん種を主としたねり製品、珍味などを製造販売しておりました。
現在も、揚げ蒲鉾などを販売しております。 -
1階にはねり製品、珍味、佃煮、鮮魚加工の工場と冷蔵庫があり、2階は社員寮となっていました。右奥2階建の建物は、4階建に増築、その後改装を行い、本社ビルとして使用しておりました。
-
現在の渋谷にある東急東横店内東横のれん街は、初めてテナントとして販売店が入る形式をスタートさせた店であり、発足当時より味の浜藤は出店をしております。
-
ISO9002:1994認証 を業界初取得
-
ISO9001:2000認証を拡張
-
築地場外市場にプロだけでなく一般のお客様も対象としたお店づくりで開業
-
本社機能及び弁当惣菜製造工場として月島より移転